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ミュージシャン/プロデューサー、細野晴臣誕生(1947〜)
2004年07月09日(金) crowd.gif
  あくなき実験を繰り返す音の探求者

 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のベーシスト、そして実質的リーダーとして知られる細野晴臣は、1969年「エイプリル・フール」の一員としてデビュー、1970年には日本語ロックの創始者として知られる伝説のバンド「はっぴいえんど」に参加します。解散後には松任谷正隆、林立夫、鈴木茂らとともに「キャラメル・ママ」を結成、後に「ティン・パン・アレー」と改名し、70年代の日本のロック・ポップス界の中核をなすプロデューサー集団として、後のユーミンや山下達郎らを手がけていきます。

 また細野は、ポップスや、歌謡曲のフィールドに多くの楽曲も提供しており、「天国のキッス」「禁区」等のヒットも作曲しています。その一方で、『トロピカル・ダンディ』(1975)『泰安洋行』(1976)といったソロ・アルバムでは、自らチャンキー(ごった煮)・サウンドと呼ぶエキゾティックかつ実験的なサウンドを作り上げていました。つまり、メジャー・アーティストのプロデュースや楽曲提供で稼ぎ、自らの実験的プロジェクトに投資するともいえるスタイルだったのです。

 ところが1978年に坂本龍一、高橋幸宏と組んだYMOが世界的にヒットし、一躍社会現象にまでなったことで、状況は一変します。自らの実験的活動が、メジャーになってしまったのです。ありきたりのアーティストなら、ここでメジャーで在り続けるために、新鮮さや活力を失ってしまうところなのでしょう。しかしYMOは、人気絶頂の1980年に、当時毒のあるギャグやパロディで人気のあった「スネークマンショー」の桑原茂一と組んで、「ジ・エンド・オブ・エイジア」を含むアルバム『増殖』を作り、自分たちを笑い飛ばして見せたのです。最近の森高千里とのCM出演などでもわかる、こうした余裕とユーモアのセンスこそが、細野晴臣の存在感と独自性を際立たせていると言えるでしょう。もちろんその一方で、最近では自らのレーベル「デイジー・ワールド・ディスク」や、ドラムンベース・ユニット「HAT」などで、飽くなき音楽的実験を続けています。
 



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