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女性アーティスト不動のトップ、松任谷(荒井)由実誕生(1954)
2004年01月19日(月) sun-or-crowd.gif
  天才音楽少女からJ-POPの頂点へ

 老舗の呉服屋の次女として生まれたユーミンこと荒井由実は、6歳でピアノを習い始め、また、聖歌隊にも所属し、バッハやヘンデルに親しんでいました。中学生になると授業よりも課外活動に熱中。学校が終わると六本木のディスコに通い、朝まで踊り続けていたそうです。そうやって遊び歩くうちに、細野晴臣やかまやつひろしなど大勢のミュージシャンと出会い、彼らの影響から自らも曲を作るようになります。そんな彼女が音楽業界に彗星のごとく現れたのは1969年のこと。タイガースのメンバーだった加橋かつみが、ロック・ミュージカル『ヘアー』に出演中、仲間から「愛は突然に」という曲を届けられます。彼はすぐにその曲が気に入り、シングルとしてリリース。実はこの歌こそ、15歳の少女だったユーミンが作詞作曲したものだったのです。以来、ユーミンはミュージシャンの間で天才少女作曲家として知られていきます。

 1972年、多摩美大に入学すると同時に本格的に音楽活動を開始。同年7月にかまやつひろしと高橋幸宏も参加したデビュー・シングル「返事はいらない」をリリースしますが、これは当時ヒットせず、今では幻のシングルと言われているとか。一般に彼女の名前が知られるようになるのは、1973年11月リリースのシングル「きっと言える/ひこうき雲」。当時はフォーク全盛時代で、そんな時代にプロコル・ハルムやミッシェル・ポルナレフの影響を受けたというヨーロピアン感覚のユーミンの歌は、かなり衝撃的でした。自ら“有閑階級サウンド”と称し、「私の音楽は四畳半フォークではないからジーンズははかない」と宣言。おそらく、当時の音楽と自分の音楽は、全く違うものだという意識、プライドがあったのでしょう。

 1975年10月にリリースした5枚目のシングル「あの日に帰りたい/少しだけ片思い」は、テレビ・ドラマの主題歌ということもあってか大ヒットを記録します。以後、ユーミンの人気は不動のものとなっていき、1976年にはレコード、テープの売り上げがなんと31億7千万円に(!)。仕事が軌道に乗っていく一方、ユーミンは私生活面も充実させていきます。デビュー・アルバム『ひこうき雲』からキーボード奏者として参加していた松任谷正隆と3年越しの愛を実らせ、1976年11月に結婚。これ以降、荒井由実は、松任谷由実として活動します。そしてユーミンは、夫でありプロデューサーでもある松任谷正隆の音楽的戦略をもとに、女性アーティストとしてトップの地位を築きはじめるのです。
 



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