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作曲家、黛敏郎誕生(1929〜1997)
2003年02月20日(木) rain-or-crowd.gif
  つねに新しいものに挑戦し続けた前衛作曲家

 1964年から長らくテレビ番組「題名のない音楽会」の司会者としておなじみだった黛敏郎。前衛的な現代音楽家であり、また憲法改正論者としても知られていますが、彼の代表作と聞かれても、すぐに答えられる人は案外少ないかもしれません。しかし有名な日本テレビの「スポーツ行進曲」(プロレス番組などで使われていた、あの曲です)は彼の作曲によるものですし、また東京オリンピック開会式のテーマ曲を手がけたり、実に幅広く、日本人の心に残る活動をしてきた作曲家なのです。

 1929年に生まれた黛は、7歳で既に作曲を手がけるなど、音楽の才能を発揮。終戦直後、東京藝術大学に進学しますが、旧態然としたことが嫌いで、常に新しいものに挑戦せずにはおられない性格だったようです。当時はまだ珍しかったルンバの曲を書いたり、ピアノの試験では、クラシックが常識なのにアメリカのジャズ曲を弾いてみたり、才能も並外れていましたが、行動も型破りな学生でした。

 さらに黛らしいエピソードが、51年に卒業後、パリに留学したときの話。たったの1年足らずで帰国して言った台詞が、「パリには学校で教わる和声学の類(たぐい)に通暁している人がゴマンといる。その伝統のない我々が今さらそんなものに骨折っても仕方がない」。そして当時、世界的にも一番新しい実験音楽であったミュージック・コンクレート(※1)に取り組み、『X・Y・Z』を発表。さらに最先端中の最先端であった、電子音楽にも取り組んでいくのです。50年代前半という時代に、「今後電子機材は飛躍的に発達し、シンセサイザーという楽器が出てくる。百人の人間を抱えるオーケストラの経営は危なくなるだろう」と予言していたそうですから、その先見の明には驚かされます。

ちなみに1964年は、真亜子の誕生年で、「東京オリンピック」の年です。
 



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