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60年代の名レコード・プロデューサー、フィル・スペクター誕生(1940〜)
2004年12月26日(日) crowd.gif
   次に来るべきサウンドを予測し、それにあったアーティストを発掘し、目的にあうような曲を適切な作家に依頼し、それら全てを自らのレーベルで管理する…。現在では当たり前となっているこうしたプロデュースの手法を、60年代初期に最初に確立したのがフィル・スペクターでした。17歳の時にテディ・ベアーズというバンドを結成し、オリジナル曲「会ったとたんに一目ぼれ(トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラブ・ヒム)」を全米No.1にした彼は、程なくバンドが解散すると自らのレーベル「フィレス」を設立。クリスタルズやロネッツといったガール・グループを結成し、「ヒーズ・ア・レベル」(クリスタルズ)、「ビー・マイ・ベイビー」(ロネッツ)などのヒット・ソングを次々と制作していったのです。

 フィル・スペクターの独自性を決定づけたのは、そのサウンドでした。非常に多くの(時には百人をこえる)ミュージシャンに同時に演奏させることで得られるそのサウンドは、独特の厚味と深い残響から「ウォール・オブ・サウンド(=音の壁)」と呼ばれ、その完成形は、スタンダード曲ともなっているライチャス・ブラザーズの「フラれた気持ち(ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン)」で聴くことができます。

 またプロデューサーもスタジオという楽器を操るアーティストである、ということを示したのも彼でした。有名な例が、ビートルズ末期のばらばらのセッション・テープをスペクターが編集し、一枚のアルバムにまとめた『レット・イット・ビー』です。中でも「ロング・アンド・ワインディング・ロード」の分厚いアレンジは議論を呼び、マッカートニーはこのアレンジを嫌いましたが、レノンとハリスンは高く評価。後のそれぞれのソロ・アルバムのプロデュースに彼を起用しました。

 70年代以降、ほとんど音楽界の第一線から引退してしまったフィル・スペクター。それでも、彼のサウンドとともに青春を送った人々には強烈な印象を残しているのか、1989年には「ロックの殿堂(※)」入りを果たし、その表彰式では久しぶりに人前に姿を現しました。また意外なところでは、69年の映画『イージー・ライダー』に麻薬の売人役として出演していますし、サイモン&ガーファンクルの66年のアルバム『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』の「簡単で散漫な演説」という曲では、歌詞の中に彼の名前が登場しています。

※ロックの殿堂=The Rock and Roll Hall of Fame。アメリカの同名の財団が、ロックの普及・革新に貢献したミュージシャンや音楽業界人を讃えるために1986年に設けた賞。最初のレコードを出してから25年以上経っていることが殿堂入りの条件だが、古いだけではだめで、後世に与えた影響の大きさが評価される。
 



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