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ドイツの作曲家、ヨハネス・ブラームス誕生(1833〜1897)
2004年05月07日(金) sun.gif
  ブラームスはマザコンだった!?

 バッハやベートーヴェンと並び称せられ、19世紀後半のドイツ音楽界をワーグナー=リスト派と二分した大作曲家ブラームスは、その作品に似て、地味で峻厳、社交嫌いで恋愛下手な性格でした。

 それは厳格な母親の影響かも知れません。両親が結婚したのは父24歳、母41歳の時。ブラームスが生まれたのはその3年後ですから母は44歳、当時としては高齢出産もいいところです。この母は、若い母親の愛情というより、祖母のような威厳と教育的配慮でもって幼いブラームスに接しました。彼がいつも若い乙女のハートを射止め損ね、14歳も年上のクララ・シューマンに憧れを持ち続けたのも、また初期のブラームスの作品がいやに年寄りじみていて、反対に晩年の作品になるほど若やいでくるのもこれが原因だ、という説もあります。

 20歳の頃、リストの超絶技巧の演奏を目の前で聴かされながら居眠りして親友ヨアヒムを激怒させ、晩年のシューマンに見出されてその死後未亡人クララを慕い続けたブラームス。1859年にピアノ協奏曲第1番を初演するものの不評で、作曲家として芽が出ませんでした。そんな彼が名声を確立するのは、1868年に「ドイツ・レクイエム」の初演が大成功を収めてからですが、この曲には、1865年に76歳で亡くなった老母への思いが込められているといわれています。

 1870年代後半に「ハイドンの主題による変奏曲」(1874)、交響曲第1番(1876完成)、同第2番(1877)、ヴァイオリン協奏曲(1878)、「大学祝典序曲」(1880)、ピアノ協奏曲第2番(1879-81)など立て続けに名作を発表した彼は、1880年以降はさらに円熟して、人生の秋を感じさせる交響曲第3番(1883)、交響曲第4番(1884-85)、クラリネット五重奏曲(1891)といった作品群を残します。しかし最後まで伴侶には恵まれず、クララ・シューマンが1896年に亡くなると、その後を追うようにして1897年に息を引き取るのです。ブラームスは常に亡き母につながる母性を追い続けたのかも知れません。
 



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