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ロシアの作曲家、ストラヴィンスキー没(1882〜1971)
2004年04月06日(火) sun-or-crowd.gif
  カメレオンと呼ばれた作曲家

 ロシア人作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーは、後に’カメレオン’や’1001の顔を持つ男’と称されるように、時代によりその作風を変えていった作曲家です。ストラヴィンスキーは、宮廷歌劇場の歌手の息子として、ロシアのサンクト・ペテルブルグに生まれました。幼いころからピアノを習い、音楽家になる夢は強かったものの、父の勧めもあり大学は法律関係に進みます。しかし、そこで出会った友人の父が作曲家リムスキー=コルサコフだったことから、法律家への道を捨て作曲家を目指すべくコルサコフに師事したのでした。

 ストラヴィンスキーの代表作でもある1909年から13年に書かれたバレエ3部作「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」は、ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフとの出会いによって完成しました。複合拍子、変拍子、不協和音を多用した彼の作風は、クラッシック音楽の伝統にとらわれない革新的なものだったため、これまでの音楽に慣れた聴衆には不評で、演奏会では、たびたびブーイングが起きたと言われています。

 その後、2回の大戦により、居住地を変えたストラヴィンスキーの作風は大きく変わります。第一次大戦では、戦火を逃れ母国ロシアを捨てスイスに移住。さらに終戦後には、演奏の場を求めフランスへ。そこで画家のピカソや作家のコクトーとの交流を深めました。彼らとの交流からか、なぜかこの時期のストラヴィンスキーの作風は、それまでの革新的なものから一転してオペラ「エディプス王」に代表される古典的な手法になります。

 そして39年、母と妻と娘を相次いで病で失い、第二次世界大戦から逃れることもあり、ハーバード大学の招きを受けて単身アメリカに移住し、翌年再婚。新たな人生を歩み始めます。若き作曲家ロバート・クラフトやジャズから影響をうけたストラヴィンスキーは、12音技法(※)を取り入れた「アゴン」のような難解な曲にみられる、秩序に基づく無調性な曲に積極的に取り組みました。そして晩年にかけては、「レクイエム・カンティクルス」に代表される古典的宗教音楽を多く作曲しました。
 



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